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気仙沼からのメッセージ

平成23年3月11日に発生した東日本大震災。気仙沼市では死者1,040名、行方不明者243名。住宅が全半壊、倒壊などした被災世帯数は、推計9,500世帯にも上っています(平成24年12月27日時点、市広報より)。

気仙沼からのメッセージ

気仙沼が受けた被害

気仙沼が受けた被害平成23年3月11日、東日本大震災の発生により、多くの尊い人命が失われ、とくに太平洋沿岸の各地域では未曾有の大災害となりました。

気仙沼市では死者1,033名、行方不明者338名。住宅が全半壊、倒壊などした被災世帯数は、推計9,500世帯にも上っています(平成24年1月13日時点、市広報より)。市の全世帯数の、およそ35.7%が被災したことになります。

強い余震は一か月以上続き、半壊した家屋が崩れ落ちるなど被害は拡大しました。また津波は規模を小さくしながら、2~3日の間、寄せては引いてを繰り返しました。

津波に続いて、気仙沼では流れた重油に火がつき、港湾地域を中心に大火災が発生しました。
風に煽られて山へ火が上り、何日も燃え続けました。映像を記憶にとどめている方も多いことでしょう。
市内各地(鹿折、大島、大浦、内の脇)で起こった火災がすべて鎮圧されたのは、3月17日のことでした。

ライフラインの復旧

【電気】
3月11日より停電。自家発電設備を持つ病院と施設のみわずかに稼働。しかしそれも、次第に消える場所がありました。15日、市内の一部地域で電気が復旧し始め、病院や避難所、比較的被害が少なかった地域から復活していきました。5月30日、気仙沼市内の電気は復旧しました。

【ガス】
3月11日、プロパンガスは唯一残ったライフラインになりました。市ガスは、はじめ復旧の見通しが立たないとも言われていましたが、平成25年2月現在、被害が甚大な地区を除き復旧しています。

【水道】
13日、市内の避難所に給水車が回りはじめました。水道は、津波の被災地域以外は復旧していますが、下水設備は仮設処理場のため、市で節水を呼び掛けています。

産業への影響

気仙沼が受けた被害産業面への被害は深刻な規模でした。造船業と鉄鋼業の会社が密集していた地区は、津波と火災で壊滅的な被害を受けました。漁業者は津波で船や養殖設備を失い、水産加工業者は工場と機械を流され、港湾設備が破壊されて港に船が入港できなくなったため、関連企業はすべて被災したのです。

運よく家が残ったひとも、多くが失業せざるをえませんでした。気仙沼の企業のおよそ7割が津波で浸水していたからです。

『気仙沼は717社が浸水地区にあり、全1,061社の67.6%。合計売上高は2,324億円で全体の83.2%を占め た。業種別では多い順に小売業169社(23.6%)、サービス業ほか129社(18.0%)など。売上高構成比では卸売業28.8%、製造業22.7%などとなった。』
(引用、河北新報ニュースより2011年5月12日。数字は商工リサーチ調べ)

海に直接かかわる仕事だけでなく、被災の影響が気仙沼地域すべてに及んでいることが、この数字からわかります。

被害は連鎖する、復興も連鎖する

気仙沼には、水揚げした魚や加工食品を貯蔵するための大型冷凍庫や冷蔵庫が数多くありましたが、ほぼ被災してしまいました。三陸地方に代表されるリアス式海岸の地形では平地が少なく、大きな加工場や冷蔵・冷凍庫はほとんど海に近い場所に建てられていました。これまで記録されていた津波の規模ならば十分に防げる想定でしたが、今回は、建物の鉄骨は残ったものの、1階部分を波に貫かれてしまうなど、被害は大きいものでした。
平成25年2月現在、いくつかの冷蔵庫が稼働していますが、到底、被災前の状態に追いついてはいません。

水産加工に伴って生まれる、骨などの残滓の処理場も、まだ動いておらず、他の処理場へ運んで処理している状態です。秋刀魚など、二次加工を必要とする魚種は、加工場ができなければ多く受け入れることはできません。平成23年度は、気仙沼港の秋刀魚の水揚げ量は前年の2割しかありませんでした。加工設備が万全でないために、それ以上受け入れることができなかったのです。

魚市場の復旧、卸、製氷、加工、小売、運送など、どれが欠けても流通までたどり着きません。すべてが連携して復活していかなければならず、まだその復旧は、半分にも至っていません。

気仙沼ふかひれのご紹介

ふかひれの歴史

a中華料理の高級食材といえば魚翅(フカヒレ)と言う位有名ですが、日本でも意外と古くから食材として扱われてきました。

江戸時代には、フカヒレは食材というよりも、中国への輸出品として存在していました。乾燥させた海参(ナマコ)・鮑(アワビ)・翅(フカヒレ)の三種が、中国では『参・鮑・翅』と称される高級食材になっていまして、それを俵詰めにして長崎から輸出したことから、俵物三品と呼ばれていたようです。

江戸幕府にとっては『金・銀・銅』の変わりに決済できる品だったので、中国との貿易においては重要な輸出品として位置づけられていました。

ふかひれが高価な理由

a『ふかひれ』といっても高価なイメージがありますが、その理由として いくつか挙げられます。

【量が少ない】
大きなサメの体から取れるヒレは数%とごく少量です。

【手間がかかる】
あの旨みと食感を生み出す為には長い時間をかけ手間隙をかけ乾燥させ、熟練された職人の細やかな手作業が欠かせません。非常に時間と手間がかかる食材の一つです。

【国内の漁船の減少】
延縄船の減船の影響により水揚げの絶対数が減っていることも理由の一つと考えられます。

気仙沼の風土・歴史

「私たちの気仙沼は、豊かな海や山の恵みと、先人たちのたゆまぬ努力によって栄えてきた街です」

上の文は気仙沼市民憲章の前文からの抜粋です。この前文にもうたわれているように、気仙沼市は三陸海岸の中ほどに位置し、黒潮と親潮に育まれた海洋生物や、三陸海岸気候とでもいうべき特徴的な気候による陸上生物などを多種多様な生物に恵まれています。

1. 気仙沼市の地形について

a気仙沼市は、入江と岬が鋸歯状に出入りする三陸のリアス海岸に位置し、最も深くいりこんだ気仙沼湾と東の唐桑半島からできています。気仙沼湾の入口には三陸海岸最大級の大島が防波堤の役割をしているので、湾内は波が穏やかで良港の条件をそなえています。

2. 気仙沼の海

岩井崎気仙沼市所沢の小高い丘陵に田柄貝塚という気仙沼を代表する縄文時代の遺跡があります。そこからは漁労の対象となった貝類67種と魚類47種、海獣類4種が発見されています。

貝類は食用として30種あり、そのほとんどは内湾に生息する貝類で、アサリ、ハマグリ、シオフキ、オキシジミがほとんどで全体の97%を占めています。田柄人は春から夏にかけて気仙沼湾で潮干狩りをしていたことでしょう。

魚類では、イワシやサバが最も多く、スズキ、アイナメ、カレイ、サケ、サメ、カツオ、マグロ、などで、海獣類では、クジラ、トド、オットセイなどを捕獲していたようです。これらは内湾や海岸に生息するものがほとんどで、大島や、外洋に舟で出て漁獲していたことも分かっています。このように魚とのかかわりは縄文時代からはじまり、今、私たちが食べている魚介類のほとんどは縄文人も食べていたことがわかっています。

3. 町つくりをも左右する気仙沼の風

三陸沿岸部は日本海側とは対照的な太平洋気候と親潮(寒流)の影響する北日本型気候が加わり、三陸海岸型気候とでもいうべき特徴的な気候を形作っています。一般に気仙沼地方では冬季に内陸から吹く北西風は乾いた風となります。北西の季節風が吹き続ける時期の気仙沼地方は非常に乾燥するため火の用心が大切ですが、その風のおかげで海産物の干し物などはいいものができます。代表的なものに「ふかひれ」があります!その風は昔から「室根おろし」といわれています。

また、気仙沼地方には「青葉ナライ」という美しい言葉があります。五月の青葉のまばゆい季節に、それらを翻すよういにして吹く、強い西北風のことです。その風は、気仙沼湾内で働く漁師にとって恐れられていました。この「ナライ風」は大正4年(1915年)と昭和4年の2度にわたって、気仙沼の中心部を焼き尽くしました。昭和4年の大火には、この風は炎を運んで海を越え、対岸の大浦まで被害を拡大させました。夜の海に光を映しながら超えていく炎の群れを、人々はどのような気持ちで見ていたのでしょうか。このたびの津波でも気仙沼が燃えました。おそらく同じ気持ちで見ていたでしょう。

この大火は、海運で栄えたこの港の一つの機能を終焉させた送り火でした。同じ年の7月には気仙沼駅が開業し、日本中の交通体系が海上中心から陸上中心へと完成されようとしていた時期であったからです。「陸の孤島」という名を付されていくのも、このころからでした。

4. 気仙沼の漁業の躍進

大正から昭和にかけての時代は明治のころの廻船や運搬蒸気船の役割を少しずつ陸上交通に譲りながら、一方では漁船漁業が活発化していった時期でもありました。漁船の動力化は、全国における宮城県の漁獲高を、大正元年(1912年)の27~28位から、大正11年には8位まで押し上げました。大正9年には、この地に日本で初めて本格的な冷凍設備を持つ、産地冷蔵庫が建設されました。

二つの大火事に挟まれたこの時期は気仙沼の躍進期であったわけです。動力化された漁船というあらたなメディアは、魚だけでなく、人間や文化やモノをこの地に運びました。

5. 三陸の大津波

近代に入ってから現在まで、気仙沼地方では大きな津波に4回襲われています。明治29年(1896年)6月15日は「明治三陸大海嘯」とも呼ばれ、旧暦の5月5日、端午の節句の日でした。死者は27,122人でほとんどが三陸沿岸の住民でした。「昭和大津波」は、昭和8年(1933年)3月3日。今度は新暦の「桃の節句」の日の災害でした。死者は3,008人にも及びました。

この津波を機に、三陸の浜には「地震があったら津波に用心」という内容の警告を目的とした記念碑が建立されるわけですが、皮肉にも、次の大津波、昭和35年(1960年)5月24日に襲来した「チリ地震大津波」ではまったく地震が感じられませんでした。日本の裏側のチリから到来したこの津波では死者は119人でした。そしてこのたびの「東日本大震災」です。

気仙沼はこれまで、幾度となく津波や大火事、空襲などの壊滅的な被害を受けてきましたが、そのたびに生まれ変わって町を発展させてきました。今回も必ず復興し、住みよい気仙沼に生まれ変わります。